台湾に初めての演劇用劇場が出現したのは、日本植民地統治下初期であった。それは渡台した日本軍人と庶民の慰安・娯楽用に1897年12月に台北西門城外に建設された「台北座」である。1908年、縦貫鉄道が開通した際、高松豊次郎は演劇と映画が植民地支配の宣伝・教化を助ける点に着目し、縦貫鉄道沿線の八つの主要都市に劇場を建設し、(日本人のみならず)台湾人も観客として想定した。さらに、1909年に台湾人観客の消費市場を念頭にいれて、純日本資本で建てられた劇場「淡水戯館」が現れた。一方、1911年に落成した台湾人観客を対象とする「台南大舞台」は、台湾人の資本金のみで建てられた劇場である。台湾の近代劇場産業は、以上に述べたような流れで発展したのである。
植民地が近代化される歴史的過程で、劇場は、都市計画と交通網の整備に伴って、西海岸の主要都市から周辺の町村へと普及していった。日本時代に建設された劇場の総数は約300座にのぼった。当時の資料によると、その規模は400人収容の劇場から2000人収容できる劇場まで大小さまざまであった。1930年代からトーキー映画の技術が発達し、映画の上映もできる劇場や、映画専用の劇場(映画館)が徐々に増えていった。しかしながら全体的にみると、演劇を上演するための劇場が大多数占めたことが分かる。劇場は人々の日常生活に浸透し、人々の娯楽、思想、恋愛、社交とイマジネーションを膨らませる場所となった。新しい娯楽産業であると同時に、劇場は種々のイデオロギー、多様な文化と美意識を媒介する空間でもあり、さらに台湾在来の演劇や舞踊などの芸術を近代化させた揺籃でもあった。
戦後の劇場や映画館の事業は、上述の基盤に支えられて展開していった。しかし、1960〜70年代以降、新しい映画マスメディア産業の競争の下で、日本時代に建てられたこれらの古い劇場は、衰退と復興を幾度も繰り返した末に、老朽化問題と土地開発利用などのために、[相次いで閉鎖されて]歴史記録上のものとなり、人々の記憶から徐々に忘れ去られていった。
このサイトに使用されている史料は、清華大学教授の石婉舜が2015年に提供したもので、229座の劇場の名称、住所、建設と運営の記録を含んでいる。これらの資料は、「昭和十七年度新劇場別入場人員一覧表」(『台湾興行統制会社 社報』第14号、1944年1月22日)に掲載されている劇場の情報に、1895-1916年、1924-26年、1934-36年の『台湾日日新報』(漢珍版)のデータベースから見つけ出した記事、国立台湾図書館「日治時期期刊全文影像系統」、会社年鑑資料および劇場の関係写真と地図を結びつけ、先行研究の成果を参照し、考証の加えた上で整理したものである。サイトを構築する過程で、地方誌、関連サイトや個人のサイトで紹介されている地域の調査結果を再確認し、可能な限りアップデートを行った。
中央研究院人文社会科学研究中心地理資訊科学研究専題中心は、これらの豊富な史料や地図や図書とGIS(Geographic Information System)技術を用いて、劇場に関する系統的な空間記録を作成し、一般の人々と研究者にとっての、初期の台湾劇場産業発展史の入門・研究のツールとした。