台湾における日本の伝統音楽

《繁中文》版

はじめに—本研究グループの研究経緯と本ウェブサイトの構築過程

劉麟玉(奈良教育大学教授)

 10年以上前、台南芸術大学の范揚坤助教授から『台湾邦楽界』(1933-1934)雑誌の複写本を贈られた。西洋音楽の訓練を長く受けてきた私にとって、植民地台湾の音楽文化についての知識は「西洋音楽」、「漢人音楽」、「先住民音楽」にとどまっていたので、『台湾邦楽界』の内容を読んで言葉では表せないほどの衝撃を受けた。もし『台湾邦楽界』に記載されていることが事実であり、台湾で日本の伝統音楽が多く伝承されていたのであれば、なぜその足跡が戦後の台湾にはあまり残されなかったのであろうか。また、日本の伝統音楽が台湾人にも影響を与えていたのであれば、なぜ今まで聞き取り調査で会ってきた台湾人が同様な記憶や経験を持っていないのであろうか。このように様々な疑問が湧き、この歴史に対して探求したいという気持ちになった。しかしながら、私自身は日本伝統音楽の専門知識が不足で、安易に研究を始めることができないと思ったため、まずは基礎知識を吸収し、日本伝統音楽に対する理解を深めることから始めることにした。2014年、お茶の水女子大学大学院時代の恩師である徳丸吉彦名誉教授の協力を受け、また大学院の同級生で宮城教育大学教授の小塩さとみ氏及びお茶の水女子大学の後輩で当時グローバルリーダーシップ研究所の研究員であった福田千絵氏からの了承も得て、2015年度に研究チームを結成した。「日本伝統音楽の越境―植民地台湾における「邦楽」の伝承」という研究テーマで科研費を申請し、助成を受け、本研究チームの第1段階とも言えるという3年間の共同研究を開始した。

研究が進む中、植民地台湾で日本の伝統音楽の一部が劇場で演奏されていたことが判明した。そのため、台湾で劇場調査を行う際に長年の友人で国立清華大学台湾文学研究所副教授の石婉舜氏とその指導大学院生の賴品蓉氏(現在国立台湾歷史博物館プロジェクト助手)から多大な協力を得て、台南、台北、基隆などの都市における現地調査を案内してもらった。同時に、彼らの研究成果とも連携することが可能となり、石氏が自身の研究成果を公開したウェブサイト「台湾老戯院文史地図(1895-1945)」構築の経験を本研究グループと共有し、私たちの研究成果も類似した方法で公開することを提言した。そうすることによって、この研究課題に関心を持つ台湾の人々に発信することができるというメリットがあったからである。

第1段階の研究が一区切りついた後、筆者が同じ研究組織で「植民地台湾における日本伝統音楽の伝承と展開―昭和期(1926-1945)を中心に」というテーマで2018年度の科研費を申請し、再度認められたため、第2段階の研究を開始した。2019年に再び台湾への現地調査に赴いた際、石氏の紹介により、中央研究院の研究副技師廖泫銘氏を訪れ、本研究への協力を得、本研究チームの研究成果をデジタル化し、GISセンターのウェブサイトで公開することについて議論した。2020年から2022年にかけて、新型コロナウイルスの流行により、研究チームの渡台ができなくなり、ウェブサイトの制作に関する議論も停滞したが、2022年末に研究成果のデジタルおよびウェブサイトの公開について再検討した。石氏の好意により、石氏の研究成果を公開するウェブサイトの一部を本研究チームに共有させてもらった。サイトのデザインはすべて廖氏の緻密な制作によって行われている。このように両氏の協力の下、本研究チームの成果が日本統治時代の音楽文化に関心を持っている台湾の人々に見せることが実現できたのである。この場を借りて、本研究への支援と協力をしてくださった関係者に心から感謝申し上げる。特に石氏と廖氏がこの研究成果を公開するために費やした時間と労力に対して感謝の意を表したい。

※本研究はJSPS科研費 JP15K02112, JP18K00128の助成を受けたものである。

臺灣における日本音樂の演奏空間に関する地理情報

徳丸吉彦(お茶の水女子大学名誉教授) 撰文

 今回の資料は、日本が臺灣を植民地にしていた期間(1895-1945)における劇場と臺灣在住の日本人音樂家の住居に関する地理情報を提示するものである。今までも、臺灣全体における劇場の数や日本人音樂家の数は、ある程度知られていた。しかし、こうした総数だけでは、臺灣における日本音樂の伝承と伝播の実態を把握することができない。臺灣のそれぞれの地域で、だれがどのような音樂を演奏・教授し、どの劇場を使って演奏したかが解明されてはじめて、臺灣において日本音樂が実際に鳴り響いたことが分かるからである。ここでは、演奏を、聴衆の存在を前提にした公的な演奏と個人の住居で行われる私的な演奏に分けて考える。

まず、公的な演奏が行われた空間として、劇場を考える。劇場の役割は、その地理的な位置によって決定される。演奏される音楽ジャンルも、観客の性格もその数も、土地によって規定される面が強い。交通手段が不便であった時代には、人びとが遠隔の土地にある劇場に行くのが難しかったからである。臺灣の劇場の歴史に関する石婉舜・頼品蓉の詳細な地理學的研究が明らかにしたように、臺灣の劇場は、都市計画と交通網の整備に伴って、次第に数を増やし、この期間で約300に至った。この増加は、それぞれの地域の人びとが自分達の地域に劇場を必要としたことから生じたものであろう。したがって、音樂にとっての劇場の役割を知るためには、劇場の総数だけではなく、劇場の地理的な分布の調査が必要なのである。

日本音楽には、能樂・歌舞伎・人形浄瑠璃(文楽)など劇場を使う劇場音樂と、私的な空間を使う室内樂がある。

日本人は、近世でも、臺灣を植民地化した近代でも、音樂を愛好していた。日本人は、劇場に行って音樂を聴くだけでなく、自分で長唄、箏曲・地歌・尺八樂を習うことによって、音樂を樂しんだのである。近世以降、とりわけ近代に、これらの音樂の歌詞と樂譜が大量に出版されていることが、これらの音樂が広く愛好されていたことを示している。なお、箏曲・地歌・尺八樂は、一緒に演奏されることが多いため、三曲という用語で纏められる。

多くの人にとって、こうした音樂を師匠について稽古する目的は、音樂を樂しむことにあった。稽古の過程で、師匠が演奏する音樂を聴き、それに近づけるために練習することによって、音樂を樂しんだのである。愛好家であっても、稽古を受けて、一定の能力を獲得するので、彼らも師匠として弟子に教えることができたのである。

箏や尺八をもって臺灣に来た多くの人は、音樂を個人的な稽古を通して習得した愛好家で、最初から音樂で生計を立てたわけではなかった。尺八を演奏した男性の多くは、公務員・會社員・軍人であり、箏を演奏した女性の多くは、配偶者とともに臺灣に来た人たちであった。これらの人びとは、臺灣の各地に居住し、近所の人びとに音樂を教えた。彼らの住居が、冒頭に述べた私的な演奏の場である。

日本でも、近代に入ると劇場が建設されたため、こうした音樂の愛好家が稽古の成果を発表するために、劇場を使うようになった。臺灣でも、次々に建設された劇場で、長唄や三曲が演奏されるようになったが、日常的な稽古は、個人の住居で行われるので、師匠の総数だけでは、音樂活動の実態を把握できない。今回の師匠の一覧は、師匠の地理的な分布を示すことによって、臺灣各地での音樂の伝承・伝播の状態を明らかにした。

1920年代になると、日本の本土から職業的な音樂家が臺灣を訪問し、演奏を行うようになる。彼らが臺灣で演奏活動を行えたのは、まず、それまでに構築されたインフラストラクチャーのお蔭である。具体的には、日本と臺灣の間の定期航路、臺灣内の鐵道網、電信・電話・郵便、電気、劇場などであり、そのどれが欠けても、彼らが臺灣で演奏することができなかったであろう。

インフラストラクチャーに加えて、本土の音樂家たちの臺灣での演奏を可能にしたのが、臺灣在住の音樂家たちであった。彼らは、本土の音樂家の臺灣での受け入れを準備し、また、本土の音樂家と共演することによって、演奏旅行を成功させた。この場合も、臺灣在住の音樂家の居住地が重要な意味をもっていたことが、今回の地理學的な研究で明らかになった。

さらに、公的な演奏の場として、神社での演奏が取り上げられた。植民地期の日本は、臺灣に日本の國家神道を導入した。臺灣神社(後の臺灣神宮)は、海外に設置された最初の、そして高い地位を持つ神社である。臺灣神社の祭礼の日は、臺灣の祝日とされたため、學校は休みとされた。また、この神社の祭礼を扱った學校唱歌も作曲され、臺灣で歌われた。この神社の祭礼では、神に捧げるために、日本と臺灣の音樂、そして、軍樂他の西洋音樂も演奏された。したがって、祭礼は、日本と臺灣の人々にとっての、多様な音樂に接する機會であった。また、祭礼に於ける演奏が、神社の中の特定の建物の中でも行われたが、一般には、神社の屋外空間で行われ、さらに移動する屋台や行進によってでも行われたため、劇場とは比較にならないほどの多数の人々が聴くことになった。したがって、祭礼の日には、神社の空間とともに、音楽家が移動する空間が、劇場よりも開かれた公的な音樂空間を形成した。

臺灣では、臺灣神社の建設に続いて、神社としての格はさまざまであるが、68の神社が建設され、それぞれの地域で役割を果たした。臺灣総督府は、臺灣の人々に対して、これらの神社を使って、國家神道への信仰を強制した。しかし、公的な場での神社礼拝が行われても、國家神道が臺灣の人々の個人的な信仰の対象になることはなかった。そのため、日本帝國主義の象徴としての神社が、日本の敗北とともに臺灣から消滅したのは当然である。しかし、神社の祭礼が人々に音樂に接する機会を提供したので、その詳細な音楽学的・地理学的な研究は、植民地期の臺灣の音樂生活を知るために有用なのである。

このように、音樂學と地理學の共同作業により、日本人音樂家の総数とともに、それぞれの音樂家の居住地、そして、神社の祭礼の場が調査された。その成果は、臺灣各地における日本音樂の伝承と伝播の実態の把握に大きく貢献することになろう。

A.日本統治下台湾における台湾神社祭余興データベース

劉麟玉

 本データベースは、1901年(明治34年)から1943年(昭和28年)にかけて、『台湾日日新報』に掲載された台湾神社の祭典関連余興プログラムの記録を集めたものである。台湾神社が建立されたきっかけは、台湾接収に向けて渡台し、台湾で病死した北白川宮能久親王(1847-1895)を祀るためであった。日本国内の帝国議会および貴族院の審議を経て、最終的に能久親王と北海道の三柱神、大国魂命、大己貴命、少彦名命を合祀することになった台湾神社が新領土台湾の「総鎮守」として位置付けられた。台湾神社は1899年2月に着工し、1901年10月20日に竣工した。同年10月27日には鎮座式が行われ、10月28日が大祭日社と定められた。1937年から、台湾神社は新しい神殿を増築し、1944年6月に台湾神宮に改称し、天照大神を祭神として追加した。しかしながら、新しい神殿に移る直前の1943年10月23日に日本の旅客機が墜落し、新しい神殿の一部が焼失したため、終戦まで台湾神宮は旧神殿を使用し続けた。1945年8月に日本が敗戦し、11月17日に台湾神宮を含む各植民地の神社と神宮が正式に廃止された。

日本の神社は通常、盛大な表祭(または本祭)と素朴で簡素な余興活動のない蔭祭を隔年で開催する習慣がある。また、本来は本祭に属する年でも、当時の政治社会の変動により臨時に蔭祭に変更される場合がある。台湾神社でも、明治時代(1901-1911)から大正初期までは類似した状況が見られた。しかし、1916年以降の台湾神社祭典では、表祭と蔭祭を明確に区別しなくなった。

本データベースには、台湾神社の祭典前夜祭(27日)と大祭日(28日)の両日に行われた音楽関連の余興プログラムの記録が含まれている。初期の1920年代までは、台湾の漢民族の伝統音楽と日本の伝統音楽が共存していたことが分かる。しかしながら、1930年代以降、台湾の漢民族の伝統音楽が徐々に消え、西洋音楽が主流となり、日本の伝統音楽と併存するようになった。また、これらの余興プログラムの演奏空間は、基本的に屋外で行われ、初期の余興は台湾神社の近くで上演されたが、1907年以降は台北市内に移動するようになった。

B.台湾神社祭期間における室外の演奏空間

劉麟玉

 1901年から1943年まで開催された台湾神社祭には余興に多くの音楽プログラムが盛り込まれた。また、1920年代までは日本人だけでなく、台湾人も多くの余興プログラムを提供していた。当時の新聞記事と資料によると、1901年10月27日と28日に第1回の台湾神社祭が開催され、当時の余興場として台湾神社近くの円山公園と明治橋周辺の舞台に演芸場が設置された。また、台北市街には日本の芸者が山車と一緒に練り回る行列も登場し、さらに台湾人が設けた音楽ステージもあった。1907 年に余興の会場は円山公園付近から台北市街の武德堂広場に変更されたという記録が残っている。さらに、台北公園(新公園)が完成したのち、 1913 年から1943 年までの間、新公園の野外音楽堂も余興の会場となった。 このように台湾神社祭の規模や時代の変化により、余興の内容も少しずつ変わっていった(本サイトの説明A.「日本統治下台湾における台湾神社祭余興データベース」を参照)。 しかし、少なくとも日中戦争前までは、台湾神社祭がほぼ毎年開催され、台北市街は台湾伝統音楽、日本伝統音楽、洋楽が鳴り響く広大な演奏空間であった。

図 B1 は台湾神社と、異なる時期に余興場として指定された円山公園、武徳堂、台北公園の地理的位置を示しているものである。

台湾の神社を含む台北広域地図

図B2は、1901年に芸妓が三味線やその他の音楽を演奏しながら、台北市内を山車とともに練り回るルートである。

台北市街で練り回っている芸妓たちの地図

日本の芸妓(以下、芸妓)は植民地台湾でかなり早くから活動を始めており、1897年(明治30年)の『台湾日日新報』において関連記事を確認することができる。 基本的に芸妓は「検番」に所属し管理されていた。明治時代(1895-1911年)には城内、艋舺、一力などの検番が存在しており、検番の責任者が芸を披露する場所(売店や各種社交場)に芸者を派遣するだけでなく、芸妓に三味線などの伝統楽器や日本舞踊などの指導も行った。第二次世界大戦以前、芸妓は頻繁に台湾神社祭に参加し、音楽や舞を披露していた。『台湾日日新報』の記事によると、第1回の台湾神社祭の当日、複数の検番に所属する芸妓たちが、まず台北市内で山車を練りまわし、その後、汽車に乗って台湾神社で参拝したのち、神社の外にある圓山公園付近に設置された舞台で余興を行った。一方、別の検番に所属する芸妓は同じ日に台湾神社をまず参拝し、余興を披露してから台北市内に戻り、山車を練りまわしたという。つまり、各検番の芸妓が二班に分かれ、台北市街で芸妓たちの行列が2回見られるようにプログラムが組まれていた。市街の祭りの雰囲気を盛り上げる意図があったと思われる。芸妓の余興内容は手古舞や三味線、太鼓の演奏などが記録されている。図 B2 の黄色の線は、当時の芸妓たちが街を練り回った順序の一例を示している。新起横街から出発し、書院街より北門街、府直街、府前街、文武街を経て終点の東門まで続いていたことが分かり、かなりの距離を歩いていたことが想像できる。

図B3は、台湾の漢人が提供した余興の一例として1909年のものをまとめている。台湾漢民族による蜈蚣閣や詩意閣などの山車、大鼓吹、南管や北管の樂團が行列して街を練り歩いたり、漢民族たちが居住する街で音楽や演劇など様々な余興が用意されたりしていたことがわかる。

台湾の漢人が提供した余興

台湾神社祭の祭礼行列に参加した手古舞姿の芸妓達(《臺灣日日新報》1930年10月28日紙面2)

台北大同会娘連の手古舞(《臺灣日日新報》1930年10月28日紙面7)

台湾漢人の蜈蚣閣の行列(《臺灣日日新報》1909年10月30日紙面5)

C.在臺日本傳統音樂演奏家(師匠一覧)

小塩さとみ(宮城教育大学教授)

 1930年代前半の台湾で日本の伝統音楽を教えていた師匠についての一覧である。昭和8(1933)年5月に台北で創刊された邦楽愛好者のための月刊雑誌『台湾邦楽界』には、創刊号から7号までに「台湾在住師匠名簿」が6回掲載された(第6号のみ掲載なし)。この6回の名簿情報からは、当時台湾のどこでどんなジャンルの日本音楽が教えられていたかを知ることができる。名簿情報に、この雑誌に稽古場案内等の広告を出して住所がわかる人物を加えて作成したのが「在臺日本傳統音樂演奏家(師匠一覧)」である。『台湾邦楽界』は翌年の7月までに12号を発行した後、雑誌の名前を『臺湾演藝と樂界』に変えて昭和10年5月までに全部で22号が刊行されたので、広告は22号掲載までのものを対象とした。

一覧表では、居住地とジャンルで音楽家を整理し、地域ごとに人数の多いジャンルから順に掲載した。備考欄には、その人物についてわかっている情報を書き記した。この一覧表に名前がある人達は、師匠として教授活動を行うだけでなく、演奏会やラジオ放送に音楽家として出演している人も多い。

ジャンル別に見ると、尺八の教授者がもっとも多く、琴古流と都山流、上田流の三流に、所属流派の不明な人や明暗流奏者を加えた数は95名で、全体の54%を占める。箏曲(箏と三絃)の生田流が24名、長唄が15名である。数は少ないが、他に義太夫節や常磐津節や清元節(いずれも三味線を伴奏にした語り物音楽)や、琵琶、日本舞踊の師匠などの名前が見られる。

居住地別に見ると、台北が99人ともっとも多く、さまざまなジャンルの師匠が稽古を行っていたことがわかる。次に多いのが台中の19人で、尺八と箏曲、長唄、日本舞踊が教えられていた。基隆は15人で尺八と箏曲と長唄が教えられていた。基隆には日本内地から台湾への船が到着する港があり、内地からの日本人が最初に台湾で上陸する場所であった。師匠の数が多いのは、このような港町の性格と関連があると思われる。台南は9名で、尺八と箏曲の師匠の名前が判明している。台南の師匠の人数に関しては、今回調査した雑誌が台北で発行されたものであることを考えると、ここに記載のないジャンルの師匠も多数いた可能性が考えられる。台南の状況については、他の資料を用いた追加調査が必要である。以上の4都市以外にも、ごく少数の尺八師匠が台湾のいくつかの地域にいたことがわかる。

このような人数の分布は、ジャンルの人気だけでなく、それぞれのジャンルの音楽的・社会的な特徴とも関連がある。尺八は明治時代に一般男性の演奏する楽器として日本の内地でも広く普及するようになる。楽器が小さく持ち運びに便利であったこと、独奏曲も多いことから、植民地台湾では早い時期から尺八を演奏する男性は多く、内地からの師匠の派遣も行われた。また他の仕事に従事しながら趣味として尺八を吹く人が、他の人から頼まれて演奏法を教授することもあったと思われる。表に示した尺八の師匠には、台中の関段敏雄や嘉義の安生長治のように官舎に住む者、台南の中田甦山や高雄の植村明風のように製糖会社の社宅に住む者、宜蘭の無線電信局勤務者、苗栗の機関庫勤務者、台中の豊原専売局(煙草耕作所)に勤務する者などがおり、他の仕事を持ちながら尺八を教えている人が多数いたことがわかる。

尺八は独奏も可能だが、箏や三絃(三味線)との合奏曲も多い。箏は明治以前から裕福な家庭の女性が習う楽器として人気があり、植民地で仕事を行う夫と共に台湾に居住するようになった夫人の中には箏の演奏ができる者も多かった。また箏は女の子の習い事としても人気があり、宮城道雄をはじめとする新日本音楽運動の流れの中で新しい箏の曲が多数作られたため、学習者も多かった。箏の師匠が尺八に次いで人数が多く、比較的台湾の広範囲な地域に居住していたのは、このようなジャンルの特性に関係がある。雑誌記事の中には、尺八と合奏する時の箏や三味線の奏者として「安生夫人」「永井夫人」などの名前があり、夫の仕事で台湾に移住し、演奏・教授活動を行っている女性が多かったことが推測される。

一方、長唄や三味線伴奏の語り物音楽は、芸者文化との結びつきが強い音楽である。長唄は基隆や台中にも師匠がいるが、それ以外のジャンルの師匠の居住地が台北に限定されているのは、芸者文化との関係に起因すると思われる。おそらく台南にも長唄の師匠はいたのではないかと推測されるが、資料からは確認することができなかった。長唄は明治期に家庭音楽としても普及するようになったため、日本の内地では一般人で長唄を演奏する人も増えた。長唄の稀音家和三文が、夫の台湾移住のために台北で教授所を開くことになったという紹介記事があったが、彼女が所属していた流派は家庭音楽としての長唄を推進していた「研精会」と呼ばれる流派であり、彼女の弟子も一般人が多かったと思われる。

内地で活躍していた専門家が台湾に渡ってくるケースもあったが、台湾で長く活動した人もいれば、1年程度で内地に戻る人もいた。今回の調査では1930年代前半の状況であるが、今後、それ以降の変化についても調査を行うことができればと考えている。

 


日本傳統音樂演奏家全台分布圖

日本傳統音樂演奏家-台北分布圖

日本傳統音樂演奏家-台中分布圖

日本傳統音樂演奏家-台南分布圖

日本傳統音樂演奏家-基隆分布圖

D.日本傳統音樂演奏會

福田千絵(お茶の水女子大学非常勤講師)

 D.日本傳統音楽演奏會は、日本植民地時代に行われた三曲(日本伝統音楽のうち箏・三味線・尺八によるもの)の演奏会を示している。一部に三曲以外の種目も含んでいる。作成にあたっては、『臺灣邦楽界』(1933-1935)、『三曲』(1921-1944)、『臺灣日日新聞』(1898-1944)、その他、日本で出版された三曲関係の雑誌を参照した。このうち『臺灣邦楽界』と『三曲』については網羅的にデータを抽出したが、その他の資料については、筆者の研究の際に抽出した範囲に限定されているため、年代と人物に偏りがある。

資料のうち、『臺灣邦楽界』はC.在臺日本傳統音樂演奏家(師匠一覧)の小塩の説明を参照されたい。一方、『三曲』は東京で発刊された音楽雑誌で、尺八師匠の藤田鈴朗が一貫して編集を行い、購読者は全国の尺八・箏曲師匠と愛好者であった。関東大震災後の数カ月を休刊した以外は、雑誌統制による1944年の終刊までほぼ休みなく刊行され、全264号を数えた。なお、『三曲』の演奏会データベースは、筆者HP(http://sankyoku.jimdo.com/)に掲載している。

D.日本傳統音楽演奏會には、1900年から1944年までの三曲関連の演奏会がみられるが、演奏会数は1933年から35年に集中している。移住する日本人が増加し戦争が本格化する以前にあって、実際にこの時期に日本伝統音楽が最も盛んであったという見方も可能であるが、背景に資料の多寡と筆者の研究範囲があることも考慮されたい。

演奏会の内容は、有料の公開演奏会よりも会派の温習会が多い。特殊な会としては、師匠が台湾と内地を行き来することによる歓迎・送別演奏会、内地の著名な音楽家による演奏会、戦争を背景とした慈善・慰問演奏会、三曲協会による企画がある。なお、植民地時代の初期から盛んであった多種目からなる演芸会で三曲が演奏されることもあったが、ここには原則として掲載していない。

会場は、各地の公会堂、劇場の他、新聞社やホテル、学校の講堂などが使用されていた。普段、稽古場となっている師匠の自宅で行われることもあった。三曲は、規模の小さい室内楽的な種目であり、必ずしも大規模な会場を必要としないことも、その理由であろう。

なお、地図上では年代ごとに色分けをした。

  1. 占領開始~1919年:台北では女紅場や師匠宅に加え、鉄道ホテルの演芸場、台北倶楽部、愛国婦人会事務所が使用されるようになった。台北以外の地域としては、台南公館が早い事例としてあり、嘉義、高雄、台中、基隆、新竹での演奏例がみられる。
  2. 1920年~1929年:台北では鉄道ホテルが非常に多いが、後年は台湾日日新聞本社楼上も新たに使用されるようになった。台北以外の地域としては、嘉義、台南、新竹、基隆、高雄、阿里山、虎尾、屏東がみられ、地域に広がりがみられる。この地域では各地の公会堂(台南、高雄、基隆、嘉義)が新たに使用されるようになった。
  3. 1930年~1939年:この年代はデータ数が急増し、特に1933年と34年は年間100件を超えている。一面としては邦楽の盛り上がりと見ることもできるが、件数の急激な増加と、三曲以外の種目(琵琶楽、演劇に由来する長唄、義太夫、常磐津など)が含まれている理由は、1933年に『臺灣邦楽界』が刊行されたことによる。データ数の問題はさておき、この年代は、地域の広がりが顕著であり、宜蘭、大渓、桃園、花蓮港、彰化、員林、恒春、馬公などさまざまな都市で演奏会が行われた。学校講堂や製糖会社の工場も会場となった。台北では警察会館が頻回に使用された。
  4. 1940年~1944年:この年代で確認できたのは台北の演奏会のみである。会場としては台北市公会堂が使用された。

 

E.日本の三曲演奏家の台湾演奏旅行日程

福田千絵

 日本植民地時代には、台湾に居住する日本人に向けて、内地から著名な音楽家が訪れて演奏旅行を行った。ここでは、特に三曲(尺八、地歌、箏曲、新日本音楽)の音楽家による台湾演奏旅行を取り上げている。『臺灣日日新報』『臺灣邦楽界』『三曲』等の新聞・雑誌から情報を収集し、判明した都市名及び日程・会場名を示している。中には具体的な情報が不明な旅行もあるが、音楽家の訪問の全体像を捉えるために敢えて含めた。音楽家のプロフィールは下記の通りである。

<音楽家プロフィール> 音樂家簡介

川瀬順輔(1870-1959)は琴古流尺八の演奏者で、竹友社を創立し、吉田晴風、鈴木藤枝、山口四郎も師事した。川瀬里子(1873-1957)は、生田流箏曲・地歌の演奏者で、1947年に里心会を創立した。彼らは1919年と1926年に台湾を訪問し、古典的な三曲合奏を演奏した。

宮城道雄(1894-1956)は、生田流箏曲・地歌の演奏者で宮城会を創立した。新日本音楽と呼ばれる新様式の作品を作曲し、十七弦箏や大胡弓という新しい楽器を開発した。1924年と1935年に台湾を旅行した。

小野清友(1883-1944)は、生田流箏曲・地歌の演奏者で、1928年に日本箏曲家連盟を設立した。彼は1925年に台湾を旅行し、古典的な三曲合奏を演奏した。

谷狂竹(1882-1950)は、古典尺八の演奏者で、独奏曲を演奏した。彼は、尺八行脚と称し、朝鮮、満州、上海、香港、インド、東南アジア、ハワイを旅行した。台湾には1928年に旅行し、その後、1933年から1937年には台北に居住した。

上田芳憧(1892-1974)は、上田流尺八の演奏者で、1917年に都山流から独立し、上田流を創立した。上田竹憧(1895-1986)は、上田芳憧の弟で、上田流尺八の幹部であった。彼らは1930年に台湾を旅行し、独自の新様式の作品を演奏した。

吉田晴風(1891-1950)は、琴古流尺八の演奏者で、晴風会を創立した。彼は、新日本音楽と呼ばれる新様式の作品を作曲した。彼は、韓国、米国などを旅行し、台湾へは1926年、1931年、1933年に旅行した。なお、1926年の旅行は、童謡の作曲家として著名な本居長世に同行したものであった。

初代中尾都山(1876-1956)は、都山流尺八の演奏者で、1896年に都山流を創立した。彼は、新日本音楽と呼ばれる新様式の作品を作曲した。彼は、ロシア、満州、韓国を旅行し、台湾へは1932年に旅行したが、既に演奏活動を停止していたため、演奏会は同行した弟子が行った。

鈴木藤枝は、琴古流尺八とチェロの演奏者であった。北海道出身で、以前は佐藤富士江という名で活動していた。彼女は、尺八で西洋の楽曲を演奏し、ヨーロッパにチェロ留学もしていた。朝鮮、満州を訪問したこともあった。台湾へは1933年に旅行した。

山口四郎(1885-1963)は、琴古流尺八の演奏者で、1921年に竹盟社を創立した。彼は、1934年と1935年に台湾を旅行し、古典的な三曲合奏を演奏した。

神如道(1891-1966)は、古典尺八の演奏者で、如道会を創立した。彼は朝鮮、満州、モンゴルを旅行し、台湾は1934年に旅行し、古典的な独奏曲を演奏した。

中島雅楽之都(1896-1979)は、生田流箏曲・地歌の演奏者で、1913年に正派を創立した。新日本音楽と呼ばれる新様式の作品を作曲し、満州、朝鮮を旅行した。台湾へは1936年に旅行したが、弟子の赴任に伴う旅行だったため、演奏はラジオ出演のみだった。

E1.吉田晴風1931年6月演奏旅行

E2.吉田晴風1933年10月演奏旅行

E3.宮城道雄1935年7-8月演奏旅行

E4.川瀨夫妻1919年10-11月、1926年10-11月來臺巡迴演奏
E5.小野清友1925年5月來臺巡迴演奏
E6.上田芳憧・竹憧1929年1月、1930年1月來臺巡迴演奏
E7.鈴木静枝1933年2月來臺巡迴演奏
E8.神如道1934年9、10月來臺巡迴演奏
E9.山口四郎1934、1935年來臺巡迴演奏

参考文献:

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