臺南市的案例

台南市は台湾においてもっとも長い歴史と文化を持つ都市である。この場所に劇場が現れた時期はかなり早く、行政の中心である台北市の次に劇場が建設された。劇場の数もまた台北市の次に多い。しかも台湾人の資本で建てられた初めての劇場も台南にある。従って、劇場の比較研究を行う場合には、台南市の事例は代表的であり、無視することはできない。以下、近代都市が改革されていく空間的な脈絡に従い、城壁の取り壊しと運河の竣工により三つの段階に分けて、日本時代の台南市内にある10の劇場の分布状況を考察する。1910年代以前に建設された劇場は、想定した観客の民族的要素を考慮したことが明らかで、台湾人劇場と、日本人劇場に分かれて経営する状況であった。1920年代以降は、植民地の同化政策と、都市の規模がほぼ確定したため、新しく建てられた劇場の大半は、すべての市民を対象とすることが強調され、民族により区分するというそれまでの経営の特色が弱まっていった。

第一段階は、日本統治時代の初期から台南府城 西側の城壁が取り壊される以前の時期(1895-1907)である。この時期の台南市内の劇場分布状況は【図一】に示す通りである。最も早い時期に現れた劇場は「台南座」(1903-1915年頃)と「大黒座」(1905年前後)の2つである。どちらも城内に建てられ、日本軍憲屯所や、十五憲兵本部、歩兵営、旅団司令部などの軍事機関との距離はわずか数メートルほどである。しかし清朝末に、賑やかな五條港地区と、大西門の外側の遊郭の間に城壁が作られ、2つの地区が区切られていたため、日本人と台湾人それぞれの娯楽の場所として発展した。文献の記録によると、どちらの劇場も、主に日本の演芸を上演し、現地に駐在していた日本軍のための娯楽と慰安の役割を果たした。

図一 日本時代の台南市劇場分布図 −− 城壁取り壊し以前

図一 日本時代の台南市劇場分布図-城壁取り壊し以前

第二段階は西側の城壁が取り壊されてから、運河工事が竣工するまでの期間(1907-1926)である。この時期に5つの劇場が現れた。この時期の都市計画では、遊郭の移転に重点が置かれていた。新しく建設された劇場の場所と、遊郭の相対的な位置を【図二】に示す。まず、高松豊次郎が台湾人の遊郭の南端に「南座」(1908-1928年頃)を建てた。次に建てられた「大舞台」(1911-1945年)は、台湾人が資金を出し合って、遊郭の東側、やや北寄りの小媽祖通りに建設された劇場である。これら2つの劇場の所在地は、町政制度の実施後は、「西門町」に編入された。日本統治の後期に入ってからも、台湾人の人口はこの町の八割強を占めていたことから、これら2つの劇場は台湾人を対象としていたことが明らかである。高松豊次郎は、「大舞台」とほぼ同時期に、城内にある台南公館旧址に「高松活動写真会常設館」(1911年前後)を建設した。それより遅く建てられた「戎座」(1912-1934年)と「新泉座」(1915年前後-1924年)は、どちらも日本人が建築したもので、ともに錦町に位置した。両劇場は互いにそれほど遠くなく、また第一段階で建設された「台南座」にも近い。1922年の人口統計資料によると、錦町に在住した日本人は人口の41%を占めていて、台南市全体に日本人が占める割合16%よりかなり高い。従って1910年代にこれら2つの劇場が建設された当初は、日本人を主な観客と想定していた。

図二 日本時代の台南市新建設劇場分布図-城壁取り壊し以後

図二 日本時代の台南市新建設劇場分布図-城壁取り壊し以後

第三段階は台南運河開削工事の完成から日本統治時代の終焉まで(1926-1945)である。この時期に、「緑園」から運河に繋がる「末広町通」が開通され、その沿線または隣接の地区に「宮古座」(1928-1977年)、「世界館」(1930-1968年)および「戎館」(1934-1961年)という3つの劇場が次々と誕生した。その所在地は【図三】に示した。末広町通と西門町通が交差した新たな十字路の周辺地域が、歴史の長い「十字大街」 に代わり、台南市で最も賑やかな場所となった。前述した三つの劇場は、現代建築の斬新な姿で現れ、都市のイメージに新しい要素を与え、当時の台南市の新たなランドマークとなった。この三座の劇場は新興商業地区に所在し、市民全員を観客の対象とすると強調した。これは、第一段階・第二段階の劇場が民族により観客を分けて経営する方針だったのとは、大きく異なるものである。(頼品蓉 2016b)

 

図三 日本時代の台南市新建設劇場分布図-運川工事完了後

図三 日本時代の台南市新建設劇場分布図-運川工事完了後

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